とある派遣社員の独り言
やあ、久しぶりだねマスター。ここのところ立て込んでてさ、なかなかこの店に来られなかったんだ。
でもようやく落ち着いてきたし、今日はゆっくりさせてもらうよ。
せっかくの金曜日だけど、今夜はしんみり行きたいね。聞いてほしい話もあるしさ。
とりあえず飲み物でももらおうかな。
まあ、そう改めて言うことでもないか、いつものを頼むよ。
俺もつまらない男だろ?久しぶりの注文だってのに「いつものを」なんてさ。
でも、好きだからこうして頼むんだぜ?
おいおい、どうしたマスター。らしくないじゃないか。手が止まってるぜ?
いや、別に急かしてるわけじゃ……え?「いつものって何ですか」って?
いやいや、わかるじゃん。「あなたのために」ってマスターが買い置きしてたやつ。
「どれのことですか」って……。ほら、甘くてそんで肌色の……。
ああもう、「ぐんぐんグルト」だよ。ないの?マジで?
ないわー、マジでないわそういうの。俺が今日という日をどれだけ楽しみに……あ、注文?じゃああの、オレンジジュースで。
ふう。まあこういうこともあるさ。気にしないでくれマスター。
悪いのはアンタじゃない。何もかも置いてきぼりにしちまう時間ってやつが全ての元凶さ。
でも、「マスターが俺を忘れた事実」を過去にしてくれるのも時間なんだぜ。まったくキザな話だよな。
さて、いい感じに血糖値が上がってきたところで、そろそろ話でも聞いてもらおうかな。
ああ、無理して相槌打つ必要はないぜ。ありのままのアンタで聞いてくれていい。
とは言っても、何から話そうか。なんせ俺もまだ整理しきれてない話なんだからな。最近の話なんでね。
そう、2週間前のことだ。仕事で新しい作業を教えられてね。先輩に教えてもらった後、一人で作業したんだ。
なんの問題もなかったのさ、その時は。少なくとも、決定的な失敗はなかったはずなんだ。
ところが、3日前のことだ。社員の人に呼ばれてね。
「あの機器のケーブルごちゃごちゃにして挿さなかった?」って言うんだ。
おかしな話さ、実際のところ。
ああ、たしかに俺はその機器で作業したよ。そいつを否定するわけにはいかない。
でも、俺はケーブルたちには指一本触れてないんだぜ?だって作業手順の中にはそんな過程ないんだから。
そもそもそんなことをする必要がないんだ。
ケーブルなんかいじらなくても作業はできるからな。そういう作業なんだ。
なあ、考えても見てくれよ。
必要もないのにだぜ?すでに挿さってるケーブルを抜いて、その後でデタラメに挿すかい?
でもその社員は言うのさ、
「どうもキミがあの機器を使った後からデータがおかしいんだ。見てみたらケーブルがあべこべに刺さってたよ」
ってね。
おいおい冗談だろ?俺がやったってのか?
この社員がこんなことを言うのはさ、彼が作業の手順を知らないからなんだ。
なんせ派遣に丸投げされてる木っ端仕事だからな。
社員はもっと大事な仕事で忙しいのさ。作業場で上司と楽しくおしゃべりとかね。
そんな彼が、どこで知恵をつけてきたのか知らないけどさ、続けてこんなことを言うんだよ。
「その作業を取りまとめてる社員から聞いたんだけど、あの作業、途中でケーブルをつなぎ替えるんでしょ?その時に間違えたんじゃないの?」
言葉を失ったさ、さすがの俺もね。この人はどの作業のことを言ってるんだろう、ってね。
本当に俺がした作業のことを言ってたのかな、彼は。今でもよくわからないんだ。
そんな彼の言葉に、かろうじて返した俺の言葉がこれさ。
「そうかもしれないですね」
なあマスター。俺はどうしてこうなんだ?
よくわからない状況に陥ると、とりあえず適当に相槌打っちまうんだ。何か答えなきゃって思ってね。
先に口が動いたんだよ。よくあるんだ、こういうことが。
つくづく不器用な男さ。
あとから聞いた話なんだがね、「データがおかしい」って社員が気づいたときに、ちょっとした話し合いがあったらしいんだ。
なんでも、いわゆる関係者ってやつらが数人集まって、原因の追究と今後の予防策を議論したらしいのさ。
笑っちまうよな。だって俺、その話し合いに呼ばれてないんだぜ?
俺のことを原因扱いしておいて、当の本人は蚊帳の外かい?
本当にそれで原因の追究と対策の確立ができるなら、とっくにこの世界から紛争なんてなくなってるはずじゃないか。
でも、彼らはそれで満足なんだ。立派な「予防策」ってやつを打ち出したからね。
その「予防策」なんだけどさ、聞いてあきれるよな。内容がてんで的外れなのさ。
だって、「作業後、ケーブルの位置が間違っていないか確認すること」だぜ?ケーブルは動かさないのにさ。
しかも、それを張り紙にして貼るって言うんだよ。
まいったねこれには。
そうやって彼らはいつかあの部屋を注意書きの紙で埋め尽くすのさ。
そんなとこで仕事するってのはどんな気分だろうね。
ここからの話は、マスター、醜い言い逃れなんかじゃないぜ。
あくまでひとつの可能性さ。原因ってやつになった俺が、あの日に何を見ていたのかってことなんだ。
断っておくが、俺はなにも人を悪く言いたいんじゃないんだ。
今回の件は俺が始末をつけることになってんだからな。
いわゆる報告書ってやつを書かなきゃいけないんだ、月曜日に。それならそれでいいじゃないか。
今更犯人探しなんかやらかして、それで何か変わるかい?それで変わるような組織ならそもそも俺はこんなことになってないさ。
さて、その可能性ってやつなんだがね。
俺は見たのさ。
あの日、俺が作業を終えて片づけをしている時に、作業を教えてくれた先輩が俺の様子を見に来たんだ。優しいんだ、彼。
作業中も何度か「大丈夫?」って見に来てくれてさ。だから、悪い人じゃないんだよ。
その先輩だがね、俺が片づけをしている時、なにやら測定器の前でごちゃごちゃやっていたんだよ。
いや、なにをしていたのかまでは見てないんだ。
もしかしたらスマホでもいじってたのかもしれない。そこのとこはわかんないんだがね。
でも、少し考えてみてくれ。
俺はケーブルに触っていない。作業中も、もちろん後片付けしてる時もだ。
一方で今、測定器の前では先輩が何やらごちゃごちゃやっている。そして、データがおかしくなったのは俺たちがそこを去った直後かららしいんだ。
俺が何を言いたいのかわかるかな。
まあわからなくてもいいさ。
それをここにはっきりと書くなんてことはあえてしないよ。そういうのは好きじゃないからな。
そんなことをするくらいだったら、俺はその手でコップにオレンジジュースを注ぐよ。
これはあくまで可能性の話だ。たいしたことじゃない。
この世には理屈の通らないことってのがたしかにあるからな。
もしかしたらこの件は、どこかの楽園から迷い込んだ妖精の、お茶目ないたずらかもしれないだろ?そんなことあり得ないと言い切れるほど人は利口じゃないしさ。
もうこんな時間か。
いや、長話に付き合ってもらって悪かったね。
でも、こんなこと話せるのはここだけなんだ。現実でこんなこと言っても仕方ないからな。
ことなかれ主義なんでね、俺。
さて、そろそろ帰るよ。支払いはこれくらいでいいかい?
ああ、お釣りかい。いいさ、いらないよ。
そんなことより、さっきのお茶目な妖精の話さ。
もしもその妖精ってやつがここに来たら、その金で彼女に賞味期限が大幅に切れた牛乳でも飲ませてやってくれ。