【短編小説】山道
山道の中、男は悪態をついた。真夏の蒸し暑い夜だった。曇っていて辺りには明りもないため、携帯電話の画面を足元に向けて、その明かりを頼りに山道を進んでいた。
この道の奥にある旅館に男は一人で宿泊していた。気晴らしにと思い立った2泊3日の一人旅だった。都会の喧騒から離れて過ごすのも悪くないと、この山奥の旅館に泊まることにしたのだ。
ところが、あまりに山奥だったので、1日過ごしただけで飽きてしまった。しかたなく2日目は町に出て、少しドライブでもしようとあてもなく車を走らせた。なにもない街だと思っていたが、出歩いてみると意外と時間を潰せた。つい観光に夢中になり、気が付くとこんな夜中になっていた。それで、ようやく宿に戻ろうと思ったのである。
宿に向かいながら、思いがけず楽しい旅行になったとほくそ笑んでいると、山道に入ってすぐ辺りで車のタイヤがパンクした。しかたなく車はそこに置き、宿までの一本道を歩いていくことにした。楽しい気分はあっという間にしぼんでしまった。
時刻はとっくに12時を回っている。辺りには民家もなく、静かだった。全くの無音。男はそんな環境に慣れていなかったので、山道を進みながら思わず「山が眠ってしまったのだ」などと愚にも付かないことを思った。
突然、男の右足に激痛が走った。男は大きな声をあげ、とびすさった。慌てて足を確かめると人の歯形のような傷跡が付いている。傷跡には血がにじんでいた。
何かがそこにいるのだ。男はぱっと携帯の画面をそちらに向けた。
男の目に飛び込んできたのは一人の人間の姿だった。といっても、普通の人間ではないことが男にはわかった。
まず、男なのか女なのかがわからない。顔全体は赤くただれていてぱんぱんに膨らんでいる。うつろな目と大きく左右に裂けた口が印象的だった。長いとも短いとも言えない髪は所々抜け落ち、頭皮が見えていた。
なにより、その人間は地面に腹ばいになっていた。腹をべったり地べたにくっつけ、そうしてにたりと笑った顔で男を見あげていたのだ。体のあちらこちらに刻まれた紫色の生々しい傷を気にする様子もなく、じっと男を見つめている。それはまるで獲物を狙う卑しいガマガエルのようだった。
男は咄嗟に身動きが取れなくなった。ただそこに立ってその人間を見つめていた。恐ろしいと思いながらも体が動かなかったのだ。
やがて腹ばいになった人間がのそりと右腕を前に差し出した。続いて左足。人間はゆっくりと男に近づいていく。男の足はそこでようやく動きを取り戻した。男は走り出した。
もはや悠長に山道を進んでなどいられなかった。あの化け物から逃れようと、男はひたすら足を前に運んだ。
どのくらい走ったのか、気が付くと男は木が乱立するうっそうとした所にいた。山道からはだいぶ逸れていた。耳を澄ましてみると、自分の激しい息遣いの他には何の音も聞こえない。ひとまず助かったらしいと見て、男は再び旅館を目指した。あの化け物はなんだったのかは深く考えられなかった。早く真っ当な人間のいる場所に行き、まずは気持ちを落ち着けたいと男は思った。
男が1本の太い杉の脇を通り過ぎたときである。すぐ横でどさりという大きな音がして見てみると、あの化け物が再び男を見あげていたのだ。不気味なにやけ顔をそのままに、男の足元に腹ばいになっていたのである。
男はまた走り出そうとした。ところが、化け物に足を掴まれてしまい、すぐその場に倒れてた。化け物の腕を蹴りつけても、その腕は一向に足を離さない。それでも男は抵抗し続けた。
化け物はゆっくりと男に覆いかぶさった。男の叫び声が辺りに響いたが、それは長くは続かなかった。